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日々のあと

小川さくら。1992- 別府市育ち、京都在住。生活と活動の記録・情報。

  • 帽子かけ
    梅雨入り前。寒さ戻る6月のなか。
    林光氏の自伝を読んでる。

    終戦の日のこと。
    ラジオから「あの人」のことばを聞いたあと、林氏と師匠である尾高尚忠は防空壕に避難させておいたスコアを、どちらが声をかけるでもなく日光にさらし始めた。「祭り」と表現された、尊いふたりの静かな行為。それを、電車の中で想像してみた。

    林氏がアルバイトでディナー・ミュージックの演奏をし始めたときのこと。以下文章抜粋。
    「ひろいダイニング・ルームのなかにいるすべての目が自分の一挙手一投足にだけ集中しているのじゃあないかしら、という自意識とがないがしろになり、ものすごい緊張で首すじが棒のようになったりした。
    何回かつづけるうちに、緊張がとれてきたのは、馴れたというより、そこで私がしていることはだれも見ていない、聴いてさえいない・・・、そもそも、だれもことさらに注目したり聞き耳を立てたりしないように音楽をやって、カネをもらうのが、私たちの仕事だというのがわかった、理解できた、からだ。
    私という存在は、そこで食事をしている人間にとっては、横に立っている給仕人と同じであり、給仕人の後ろに立っている帽子かけとも同じであるのだ。」

    「音楽家なんぞと呼んだり呼ばれたりしているものの、じつは帽子かけと人間とのあいだを行ったり来たりではないのかと、それ以来いまだに思いつづけていることの、はじまりが、そこだった。」
    林光/私の戦後音楽史 「帽子かけ」より


    「音楽家」や「芸術家」を名乗る人は、それがある場で、当たり前にその存在を"素晴らしい"と言い切る。他者は、自分が創り出したそれに、熱心に聞き入り、見入り、何かを感じているのだと言う。
    林光さんのこの一節は 「そう思って良いんだ」と素直に納得できて 少し心の荷が下りた。
    もちろん自分は音楽家とは呼べない素人ではあるけれど。
    私自身、ずっと音楽を神格化して、音楽をつくる人間でさえも尊い扱いをしていたような気がする。
    だから、「聴いていない」という選択肢はなかった。本当は、「聴いてる」方が日常の中では珍しいのかもしれない。

    す、と気が抜けて だが背筋は伸びて、電車の窓から河川を見渡す。裸の島のテーマソングと島の情景を思い返して頭がじんわり、暖かい熱を帯びるのを感じていた。
    勝手に日常の歌をつくって喜んでいる自分は、フーテンに近いのだから。変な自意識と格闘するより、そこにある音楽だよなぁ。その構造を理解して、きちんと聴くのが先。形を扱う。中身を見る。
    つくってる本人が、帽子かけの位置に立ち、傍観してるんじゃなぁ。



    最近の音楽。
    NHKFM/古楽の楽しみ を目覚まし代わりにしてる。
    クラシック聴く機会が少し増えた。
    ・Igor Stravinsky - L'Histoire du Soldat (The Soldier's Tale) for Trio (1918) 
    ・Athanasius Kircher -Antidotum Tarantulae

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  • 5月のあと・6月のなか
    6月はじめの休日。東京。
    円盤にて斉藤さん、橋本さんと演奏させていただく。雨の覚悟だったけれど、綺麗な晴れ間があらわれ涼しい風も吹いた。


    昼過ぎ、コクテイル書房貸していただいてお2人と練習。ぼやぁ、としているのに持ち込んだ新曲をまとめてくださった。斉藤さんはマンドリンとエレキを弾いていた。毎回違うことをしている方。
    ライブ、フォローされまくり終えた感。
    自分のことでいっぱいになって音をちゃんと拾えてないのも悔しい。他力本願か。ギターよ。張り合いたい。
    橋本さんに新しい曲、Lonnie Johnsonみたいと言われる。誰ですか、とは聞かずにへー、とか相づちうつ自分。あとで名前聞きなおして聴いてみた。

    ご一緒した山我静さんと田口さんのデュオ、夏の夜のばーちゃん家の音に近かった。今にも鈴虫と蛙が鳴きそうな。人の寝息がよく聞こえ、それら以外は聞こえない深い夜。

    翌朝。小杉湯に入ったあと喫茶店で珈琲飲みながら詩を書く。円盤の部屋に戻り、クラシックギターで書いた詩を曲にのせる。なんと贅沢な時間。
    同じ部屋に泊まっていたナガミさんと少し話していたら、最近買ったレコードにコーラスで参加してる方だった。

    午後。ju seiの田中さんにとある曲のコーラス録ってもらう。機械がうまいこと機能しなくて、田口さんが「ほんと世の中不便、、」と言う。田中さん「便利なはずなんだけどなー」。便利なはずなのになぜか効率が悪くなるふしぎ。

    円盤に行って周りの人たちの様子を見たり聞いたりすると、現在の自分の状況、輪郭が浮かび上がる。
    大勢が注目していることから離れ、勝手にやっても良いものでしょうか。そうこうしているうちに、どんどん周囲との歪みは大きくなりいずれ取り返しがつかなくなるのか。それに気づいた時の滑稽な自分も見ものだけど。
    東京から帰ると、パキッとやることが鮮明になる。そして1週間も経つとなんか忘れてんだ。間抜けな人間。



    ・市民税の納税通知書がきた。
    なんだろう、毎月の給与明細の税金やこんなのを見ると何かがグシャ、と潰れた感覚になる。稼いでる額に対してのこの金額。
    お金の舵取りが、自分で出来ていないなって 働き出してから思うようになった。
    困難な方が頭は冴えるけど。楽なほど、屍のようになっていく。自分で選ばないのは楽。他人に選ばせないのも楽。ボヤボヤしていたら、すぐに潰れる。

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  • 4月のあと・5月のなか
    初夏の陽射し。連休中、完成させる予定だった曲が出来上がらずスッキリしない。物語が欠けている。

    最近の音楽。記録。


    John Fahey/
    ・Blind Joe Death('67)
     こういうのが聴きたかった。教則CD。
    ・Fare Forward Voyargers('73)
    ・Old Fashioned Love('75)
    クイーンのGood Old Fashioned Lover Boyという曲が好きで、たまに歌う。詩の内容は恋愛なんだろうけど、古き良き〜の文句に惹かれがち。一曲目のIn a Persian Market、地元のデパートで5時になると必ずかかる曲だったから耳についてる。

    ・Bukka White/Mississippi Blues Vol.1('63)
    ギターと感情の琴線が直結しているよな演奏。未だ聴いてもどうやっているのかわからない。

    ・Mark Fosson/Solo Guitar('07)
    ・Jack RoseのLP('07)
    大阪のPo'boy Recordsで知った現代の2組。Jack Roseはリヴァーブ効いたスチールギター。どちらも繊細なギターを弾いている気がする。

    ・寺内タケシとブルージーンズ/
    レッツゴーエレキ節 -エレキの民謡お国巡り-('66)
    寺内タケシは、日本ロック史読んでから聴きはじめた。音デカいのに煩わしくない。興奮しながら聴きおえる。タンゴの日本民謡アレンジのやつが好きなんだけど、馴染みあるメロディがこんなところに、という面白味と安堵がある。

    ・バッキー白片/ハワイアン・ゴールデン・ヒッツ
    沖縄で中川裕貴さんに勧められLP購入して、宿で早速聴いた。初めて手にしたハワイアン。スチールギターの印象がかなり変わった。柔らかなハーモニーが他の楽器や声とよく浸透している気がする。要所の工夫も面白くって、日曜日の天気の良い朝にまた聴きました。

    ・PAAPライブ、HOPKENにて観る。
    楽譜というより台本のような紙をそれぞれ見ながら演奏しているようで、合間に息が止まり、ぐっとタイミングを見計らい その後に大きな雪崩が起きる感じ。緩急の繰り返し。とっても良いものを観させてもらって、嬉しかったです。朝起きて、余韻を感じたのは久々だった。


    こう整理すると、うたを聴いていない。
    意志を持つことばの強さを再確認していて、疲弊しない・させないうたのことを考えたりする。うた をつくるなら、嚙みしめ味わえる、信用できることばでないとあんまり意味がないとも思う。




    ・林光/音楽教育しろうと論 の一節から。

    「人間のよろこびや悲しみ、愛や怒り、いのりのねがいが、歌を生み出すこと、またそのようにして生まれた歌であればこそ、それを歌うとき、また聴くとき、私たちは『痛み』を感じる」
    「(子どもたちが音程を「下げない」ようにするとき、「下げない」に行き着くために)
    この曲のこの部分の『なに』をはあくさせれば子供たちじしんの『下がるまい』とする主体的な意志を生み出させられるか?
    →そのような意志が『どのような回路』を通って、そこのところの『音を下げない』ための子供じしんの技術をさぐりあてるか?それともきりひらくか?
    -最低このくらいの段階と方向性を持った検証と追及がなければ、オンガクなどというものは変わっていかないし、動いていかない。」

    これらは子供への音楽教育に関してのことばだけど、自分に置き換え読む。
    前文は『感覚』の話で、後のは『感覚をつくり、行動にする』話。ことばの教えだけで感覚、培われない。
    だけど、文頭「円環」というタイトルの短い比喩文章を読んでハッとする。
    目的がないままなんとなく、方法や検証なしに「努力」を「根気」づよく続けていればどこか良い場所、それも定まってはいない、に辿り着くっていう妄想を 知らずのうちに膨らましている。
    根拠のある批判を読むと、それを無視してきた自分を見つけ、目を背けたくなる。
    向き合わなくても、誰からも叱られないけれど こんな人の文章を読んだり、真摯な曲を聴いたりすると頑張りたくなる。

    「痛み」の有無は、歌っていればわかるのだから。無視はできないなー。


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  • 名もなく貧しく美しく
    ・4月も終わりかけ、春一番の冷たい風によろめいた日。和紙を求めて文化博物館に行き、丁度時間が合ったのでフィルム・シアターで、
    名もなく貧しく美しく/松山善三監督(1961) 観る。

    モノクロ映画を映画館で観るの初めて。
    はじまりに映された手の影。音楽は林光。

    映画において、言葉が場面を説明しすぎるのに違和感を持っていた。が、この映画で主体となる、夫婦の手話での「会話」には、人と人が伝え合う意味をつよく感じた。

    「報われたい」と、無意識に望みながら過ごしていることを確認。報われるとは。人より褒められることか、お金を手にすることか、はたまた自分の正義を認められることか。
    強いられた環境にいるでもなく、自らが選んでいるはずだけど。

    最後に、夫の片山道夫が妻秋子へ、
    「今まで政治や世の中には関わらず、自分たちの生活を守ることだけに必死なってきた。けれど、自分が倖せになったら今度は他人の倖せを考える番」
    というようなことを手話で伝えたのが印象的だった。

    雨のように、大勢に降り注ぐことばなら気づかれ、そちらの方に意識が向く。雨を降らせる権限も、力もない、雲の下に隠れた声は聞きとりづらい。でも、根気強く地面に足をつけようとする幹は、だんだん 地道に太くなる。着実に。不遇や理不尽の雨をも吸収する力があるんじゃないか。
    そんな声を拾い、再び気づかせてくれた映画だった。

    私が観たのは、アメリカでの配給の際ラストシーンが削られ方らしい。秋子なりに、報われた瞬間での最後。終焉が暗く悲しくても、こういう瞬間のために生きているんじゃなかろうか。
    そんな余韻を持って、さめざめ泣いていたら明かりがついて 爺婆が会場をそそくさと去っていった。





    この映画をみて、つくりかけていた曲の詩が頃合いを待っていたようにできあがった。
    平成ももう終わる。昭和の豊かさに学ぶことがまだまだある気がするのだな。

    ・買ってきた和紙で、2017年と2018年作のCD−Rをまたつくりました。その都度安売りしている和紙をつかうので、また質感違う。

    2017の方の型紙が破れてしまい、今ある分で終わりにするかもしれません。時間あれば型紙またつくりますが。
    誰かに聴いてもらうために、あまり売る目的もなかったひとりよがりの作品。予想以上に沢山つくらせてもらって、手にとってくれた方々、ほんとにありがとうございます。


    時間がかかるけど、1から10まで工程を確認しながら形になると安心する。曲づくりも同じ。
    円盤でいつか買った、zou/ほころび を聴きながらつくる。
    朝の陽射しこむ部屋で、作業が進むのを確認しつつ、すっと音楽が沁みていく。こんな瞬間があれば、私は報われている

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  • 日々のあと②


    ・初夏の日差しの4月の後半、奈良のプリトミで、オオルタイチさんと共演させていただいた。
    最初に唄っていた、沖縄の民謡。ことばと発声がクラシックギターの音になじんでいて、情緒だった。
    六段三味線の音つかった曲、面白くって、三味線の楽譜見せてもらいました。知らないこと多い。以前、田口さんに聴かせてもらった豊後浄瑠璃思い出していた。

    身近なことほど知らない。他者との会話から得てはじめて、知らなかったって気づく。他者の解釈の中には無数の発見があるので、会話にはそういう楽しさがある。私が喋ると、解釈がズレているのか、そもそも喋りが上手くないのか、ハテ?みたいな顔をさせてしまうことが多い。


    島田さんとの会話で、CREAMを学生時代よく聴いていたこと思い出して 久しぶりにレコードかけてみた。
    ああやっぱりこれに熱を上げていたよ、と確認。今でもSpoonfulは格好良い。ジャック・ブルースのベースと歌は色っぽい。各々が仕事していて、それが目指すところが一緒って感じさせてくれるからバンドが好きなんかな。




    Johny Winterとかは、見た目のミーハー心もあったんだろうな。

    大分に住んでいたころ影響を受けていたバンド、The CentralbarsのCD−Rがでてきて、聴いてみる。格好よし。ハードロックとかサイケデリックを聴くきっかけになったバンド。一度、ダモ鈴木と1時間半くらいずっと演奏していたのを観た。声がリズムで、ベースとドラムがうねり続け、ギター大きい音で沿うようにわめいていた。ような記憶。ツインSGはCreamと同じ。


    沢山聴いて、記憶の押入れに積んでいた音楽。
    「過去」の思い出として懐かしむでなく、現在の頭の回路を通って?聴けるようになっていて、新たな発見をする。小さな喜び。細々と続けた証しのようにも思えた。
    そして結局、ブルースに戻る。沖縄で、ブルースという昔からあるらしい菓子パンをみんなで食べたなぁ。昔ながらの、変わらないからブルース?その時代のブルース。
    レコード・コレクターズ増刊号のブルースのすべて、また読み直す。


    ・ツイッター、一旦お休みしました。
    目についたものをやり過ごす、ことができない自分には中々。他者との上手なコミュニケーションツールにはなりづらく。自分なりに発信方法を考えてみる。
    演奏予定はここに載せます。次は6/8(土)円盤にて、橋本悠さん、斉藤友秋さんと演奏します。
    5月は曲つくる余裕ありそう。怠けないようにね。嬉しいな。

    何かある方、お手数ですがメールをください。と言っても、このブログを読んでいる人がどれだけいるのか?

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